それでも実をつける


昨年の11月末、明科押野の貯木場に寄った帰り、耕作されなくなった畑地に熟れた実をたわわに付けた柿の木があちこちに見られました。明らかに収穫された様子も、またその予定もない、完全に放ったらかしにされた柿の木たち、微妙に品種の違うそれぞれが畑毎に配置されています。もう何年も剪定などもされず枝が伸び放題になっていて、それでも柿たちは食べられることもない実を健気にたくさん付け、哀愁と不条理さを漂わせています。

なんともったいない、何故か鳥たちも食べに来ない柿の実を失敬して一つ二つ食べてみます。完熟しジュクジュクと柔らかくなった実は渋柿だとしても充分に甘く美味しく食することができました。


ここだけの話ではなく、全国的に庭の柿が食べられなくなってきているのは事実でしょう。子供たちがあの手この手で柿を盗む情景は昔はよく見られました。その後の食生活の変化や流通の発展、少子化や農村の過疎高齢化など柿離れの要因は様々でしょう。ただそれも私たちがもたらした結果。手間のかかる干し柿作りは効率化を求める社会からは敬遠される。


愚直に精一杯、植物は与えられた環境に自らを繰り返します。
鮮やかな柿色の点描が夕焼けに次第に同化してゆく光景が儚く哀れに映されるのは、柿の木ではなく、むしろ背景にいる我々人間の方だと思うのです。